追いたてられるもの

 生きているのが恐ろしいんだ。
 だが、死ぬ気にもなれない。
 死ぬのが恐ろしいんじゃない。
 しかし、あんな物を見てしまった後では……

 あんな−神に対する冒涜を具現したような、自然の、そして生命の論理に反するもの−がこの世に存在し、やつらに捕らえられた者たちが死ぬ事も許されず凌辱され続けていると思うと−死にたくない。
 しかし、やつらは決して俺を逃がそうとはしないだろう。俺がやつらの存在を知ってしまった為に、そしてやつらが俺の臭いを覚えてしまった為に。
 そう、いつかはやつらが俺を捕らえにやってくる。
 だから俺は恐ろしい。だからこうして俺は震えているんだ。
 何が起こったのか言ってみろというのか。こうなったら話してやるさ。どのみちもう長くは生きられないんだろうからな。

 その時、俺は絶望していた。
 今の時勢には珍しくはない事だが、会社が潰れてしまい、住んでいた家も失い、一人きりになってしまった。その上無一文ときた。このまま惨めに生きるぐらいなら死のうと思ったんだ。
 しかし電車に飛び込むというのはとてもじゃないが出来なかった−飛び込む勇気もなかったからな。首をくくるにしても、そういう事が出来てしかも誰にも止められない場所というのは思い付かなかった。海、あるいは湖に飛び込む事は、少なくとも近くにはないから無理だった。
 そこで、ビルの屋上から飛び下りる事を思い付いたんだ。しかし、飛び下りる前に誰かに捕まってしまっては自殺なんか出来やしないから、こっそりと忍び込んで、屋上で就業時間が完全に終わって夜になるのを待って、ようやく隠れていた場所を抜けだしたんだ。

 そして、金網を越えて、しばしの間、今までの人生を振り返ってみたんだ。今までろくな事がなかったなと苦笑いした時、夜鷹の泣き声が聞こえてきたんだ。
 驚いて回りを見渡すと、夜鷹は頭の上の空に集まってきて、少しずつ近くのビルに降りていった。しかし奇妙な事に、夜鷹の目のすべてが、俺に向けられているように感じられたんだ。あれほど多くの視線を感じた事はないだろうな。
 その時思い出したんだ。確か、こういう話を小説か何かだったか−「夜鷹の一種は、死者の魂の臭いを嗅ぎつけて、魂を捕らえる為にやってくる」−そうだ、確かこんな言葉だ。その話を聞いた時は馬鹿馬鹿しい、そんな事がある訳がないと思ったがね。この時ばかりはそうも言っていられなかった。

 その異様さに呑まれた俺は、思わず息をのんで立ち尽くしていた。しかし思い直して、これから飛び降りるつもりの場所の下の方を見たんだ。そこはまっ暗だった。
 夜だからまっ暗なのは当たり前だろうって−それでも、街の中なんだ。かすかな輝きとでも言うか−とにかく完全にまっ暗って訳じゃないんだ。なのに、そこだけ光さえも通さないかのような闇があったんだ。それは円状になっていて、少しずつ広がっていた。そしてある程度の大きさになると、今度は少しずつ上に−つまり私のそばに向かっていくように感じられた。
 感じられたというのは−その闇が近付いてきている間に、夜鷹が少しずつ鳴きだしていったからだ。そのかん高いざわめきに思わず俺は後ずさりして、金網に突き当たった。だからはっきりとは見ていない。しかしその間も闇は少しずつ形を変えて、俺の立っている場所に近付いてきていた。
 その異様な光景を見て震えあがってしまって、俺は金網を乗り越えて逃げようとしたんだ。金網を乗り越えた時に、その闇が伸ばした触手のようなものが俺の足に触れた。見てみるかい−そうすりゃ俺の話が嘘じゃないって理解出来るはずだ。え?その話は後で聞くから、先を続けてくれって?わかった、続けようじゃないか。
 その後、俺は屋上の扉を叩き壊して、一目散に逃げだしたよ。その間も夜鷹は鳴き通しだった。本当に気が狂うかと思った−今思えば、あの時に気が狂った方がまだ幸せだったかもな。
 そしてビルから出た時、俺は見たんだ。いつのまにかビルの回りには、怪しい格好の者やあの夜鷹どもが集まっていた。
 そしてあいつらは俺を取り囲んで何やら唱えていたんだ。まるで、生け贄の儀式みたいだと思った−いや、みたいなんじゃなくて、そのものじゃないか!だって、俺に向かってこう言い放ったんだ。
 「これでお前は逃げられない−目印がある限り」
 すっかり青くなってしまった俺が走って逃げるのをやつらは止めようともしなかった。そして夜鷹はまだ鳴き続けていた。逃げ出す俺を嘲笑うかのように。

 その次の日、大陽の日が辺りを照らし続けている間にも、俺はただひたすら震えあがっている事しかできなかった。そして夜が来ると、どこからあいつが−あの闇が俺を捕らえに来るように思われて、脅えているしかなかった。
 しかしいつのまにか眠りについてしまっていたらしい。そして恐ろしい夢を見たんだ。
 その夢の中では、触手を持った名伏しがたき姿形をしたものどもが人間を捕らえては凌辱し、身体を破壊しては体内を凌辱し、ひたすら人の全てを弄んでいる地獄めいた夢だった。そこでは、人間は決して死ねない−身体は壊れても魂はまだ弄ばれるのだった。
 そして夢の終わりに声が聞こえてきた。
 「お前もあそこに行くのだ。死してなお永遠に続く凌辱の贄として」
 それは、あの声だった。ビルの外で俺に向かって「逃げられない」と言った、あの声だった。
 その声を聞いてすぐに目が醒めた。もう二度と寝られないだろう。あんな夢を見るのは嫌だ。

 俺は……俺はこの先どうすればいい?
 このまま生きていても、必ずあいつが俺を捕らえて行ってしまうに違いない。しかし死んだところで、やはりあいつが死体から抜け出す魂を捕らえて弄んでしまうに違いない。そうでないにしても、あの忌まわしい夜鷹どもが俺の魂を捕らえてしまうだろう。

 冗談だろうって?今まで俺がこれほどに恐怖に震えながらも話していたのを何だと思っていたんだ。ええ、お前の目は硝子玉か?
 冗談だと思うのなら、見るがいい。この足に刻まれた痕を。この痕は縄で縛った痕でもなく、獣に食い千切られた痕でもなく、まして切断された痕でもない、しかし薬品によって溶かした痕でもない。ほら、見えるだろう−肉が紐状に透明になって、骨と血管だけが見えるのが!まだ信じられないなら触れ!肉は確かにそこに存在し、しかし見えないんだ!
 そして、これは夜になると光りだす。そうだ、思い出した。夢で見た、哀れな犠牲者たちの身体の一部が光り輝いていたんだ。あれこそが、まさに目印なのか。
 こんな、こんな−こんな事がこの世のものに出来るというのか?あれはまさしく地獄の悪鬼どもなのか。それとも、何か別の−ちょっと待て。今お前の顔が変わったように見えたぞ−その目は……いつ真っ黒になったんだ……そう……あの闇のよう…まさか、そんな−お前が−
 既にこの場があいつの身体だったのか−ああ−回りが黒くなっていく−夜鷹の鳴き声が聞こえてきた…触手だ……あの時、足に触れた触手が今度は首に絡みつき、二度と男を解放しなかった。


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