Title:川

   ある山小屋に置かれた手記


 私はこれを書き終えたら、この山小屋を出るつもりでいる。そうしたら二度とここには来ないつもりだし、この場所のことも忘れてしまうつもりだ。
 しかしいつの日か、次にやって来る者がいないとも限らないので、こうして手記をしたためている。もしこれを読むことになる者がいるとすれば、こうして残す手記が手助けにならないとも限らないからである。これだけが私に出来る警告の手段であるからだ。

 最初に警告しておこう。この山小屋を越えた向こうに行ってはならない。
 少なくともわたしが判断するかぎりでは、この山小屋の少し向こうまではまだ多少なりとも安全であると思われる。しかしそれがどこまで安全かはわからないし、何よりも、いつかこの山小屋さえもが安全な場所でなくなるともかぎらないからだ。だから本当ならば、この手紙を読み終えるよりも先に山小屋を出て、さっさと山を下ってしまうのがよいのだ。
 しかしそう言ったところで、余計な好奇心を掻きたててしまうだけであろうから、わたしが書けるだけのことを書き残しておくことにする。


 この山小屋を越えて、30分ぐらい歩いた場所に一筋の川が流れている。その川は真っ赤であるから、一目でそれとわかるはずだ。真っ赤とはいっても、血のように濃い色はしていない。しかし濁っているわけでもなく、透明なわけでもないようだ。ようだ、というのも、わたしはその川の水に触れていないから確かなことはわからない。
 なぜわたしが川に触れていないか。そのことに触れるまえに、わたしがその川の存在を知ったわけを書いておこう。実はわたしはそのとき、道に迷っており、その最中にこの道−−この山小屋につながっている道−−を通っていた。そのときは、まだこの山小屋は建っていなかった。
 そして川にたどり着いたとき、わたしは少なからず驚いた。川が真っ赤だった。それを見たときにはまだ薄気味悪い川だとしか思わなかったが、よくよく見れば、回りの景色もどこかがおかしいのだった……よくよく見てみると、明らかにあらゆる景色のどこかが狂っていた。例えば樹木は川のそばにはあまり立っていないし、少しだけ立っている樹木も異様な変化を見せていた。あるものは葉っぱが全部黄色になっていた。またあるものは先端がいくつにも分かれ、それらが互いに絡み合うようになっていた。
 そこでわたしは辺りを見回してみることにした。すると、草木などは川を避けるようにして、川から比較的離れた場所に生えていた。これは普通の川なら考えにくいことだった−−試しに近くの樹の葉を手にとって、川に漬けてみた。すると、葉っぱはたちまちしぼみながら溶けていった。しかしただちに全部が溶けてしまったわけではなく、片面が溶ければ、また片面は増殖していくように変化していきながら溶けていった。また別の葉っぱを漬けてみると、今度は葉っぱがどんどん別の形に変化していった。その変化は、わたしにわかる限りでは−−植物の退行現象を起こしているのだった。今思えば、川の近くの樹木が奇妙だということに思い至るべきだった。確かにあそこには現在生息しているべきではない太古の樹がいくつか生えていたのだった。
 そうした現象を見てしまった以上、もはや川の水に触れる気が起こるはずもなかった。植物がこのような変化を起こすのなら、動物ではどうなるか想像もつかない。ましてやこの身で水に触れるなどと、考えるだけでもぞっとする。そのとき、わたしは気になることに思い至った。今いる場所では、動物の鳴き声はおろか、虫の音も聞こえないし、そうした生き物の気配がまったくない。確かにこうした川がある以上、普通の動物などは近寄らないのだろうが、それにしても奇妙なことだった。上空を飛ぶ鳥の姿すら見えないのだから。
 そこでわたしは川の回りを見てみた。どうやら川の流れに沿って道があるようだった。こうした気味の悪い場所からはさっさと立ち去りたかったのだが、他に道らしい道が見つかる気配もないし、かといって今来た道をそのまま戻るのも疲れていたわたしには無理な話だった。そこでわたしは道に沿って行くことにした。

 その道の終わりには、崖が切り立っており、その斜面には人が入れる程度の大きさの洞穴がいくつかあった。そうした洞穴のひとつから川が流れ出ているようだった。そのときわたしは疲れていたから、その中の一つの中で休むことにした。道はちょうどこの洞穴の前で切れていたし、山小屋まで戻るには小1時間ほどはかかるので、ここで休まないことにはどうしようもなかったのだから。そうして、わたしは遅い食事を取り、少し眠ることにした。
 ほどなくして目を覚ますと、既に辺りは夜だった。幸い洞穴の近くには森林がないために空の様子が見えた。星が出ていることにわたしは安心して、辺りを眺めてみた。するとおかしいことに気が付いた。
 まだ明るかった時には洞穴の数はそう多くはなかったはずなのだが、今は洞穴の数が増えているようだった。しかし、わたしはまだ明るいときには洞穴があることに気付かなかっただけなのかもしれないと思い、さきほど休んでいた洞穴に戻ろうとしたときだった。
 どこからとなく臭いがした−−森林の方からか?違う、森林の方からは風は吹いていない。それよりも、この臭いは何の臭いなのだ。獣の臭いでもない、草木の臭いでもない。いや、そもそもこの世にあるどんなひどい物でも、ここまで嫌な臭いを持っているとは思えない。そして、その臭いは川が流れ出ている洞穴から染み出してきているようだった。
 その臭いがなんだかねばつくような感覚に襲われて、わたしは洞穴から遠ざかろうとした。そのとき、洞穴が動き出した。いや、正確には、斜面が動き、洞穴の形が少しずつ変わっていった。そして斜面から新たに洞穴が開き、別のところの洞穴のいくつかが姿を消した。では、さっき洞穴の数が違っていたのは気のせいではなかったのか。では、ここは何なのだ。
 そう思ったとき、わたしはある視線を感じた。その視線は、いくつかの洞穴の向こうからわたしを強烈に見つめているような気がした。そして視線はわたしに洞穴の中へ入れ、と命令しているようだった。わたしは視線に逆らいがたく、ふらふらと洞穴の入り口まで連れ出されていった。そのときにわたしはある物を見た。そのときの恐怖がわたしを救ってくれた−−幸いなことに、そこから先の記憶はわたしにはない。ただ言えるのは、一目散に駆け出して、もと来た道を辿り、そのまま逃げてこれたことを今でも幸運に思っていることだけだ。
 そして逃げ出している最中に、この場所からいくらか離れたところに村を見つけて、そこに駆け込み、覚えているだけのことを話した。村人たちもあの場所についてよからぬ噂を知っていたので、早急に手を打つこととなり、その翌日には村人たちの手でこの山小屋が建てられることになった。
 本当ならばもう思い出したくもないが、警告のためにもあのときに見た物のことを書こう。
 あの洞穴の中には目があった。身もよだつような触手が壁の一面に生えていた。その床には数々の骨が落ちていた。そうして、その壁には大きな傷−−明らかに岩の壁ではなく、巨大な生き物の皮膚のような表面に、大きな傷がぱっくりと口を開いていた。そして、そこからは赤い水が流れ出していた−−あの川の水−−真っ赤な川の水だ。

 ここまで書けばもうおわかりだろう。
 この山小屋が道を絶つように、道の真ん中に建てられているのは何故なのか。
 森林の中に動物の姿がまったく見られないのは何故なのか。
 太古にのみ存在するはずの樹木があったのは何故なのか。
 あの森は、あの斜面は、そして川の流れているのは−−1つの……巨大な……古代の……


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うしとら
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