Title:川
ある山小屋に置かれた手記
私はこれを書き終えたら、この山小屋を出るつもりでいる。そうしたら二度とここには来ないつもりだし、この場所のことも忘れてしまうつもりだ。
この山小屋を越えて、30分ぐらい歩いた場所に一筋の川が流れている。その川は真っ赤であるから、一目でそれとわかるはずだ。真っ赤とはいっても、血のように濃い色はしていない。しかし濁っているわけでもなく、透明なわけでもないようだ。ようだ、というのも、わたしはその川の水に触れていないから確かなことはわからない。
その道の終わりには、崖が切り立っており、その斜面には人が入れる程度の大きさの洞穴がいくつかあった。そうした洞穴のひとつから川が流れ出ているようだった。そのときわたしは疲れていたから、その中の一つの中で休むことにした。道はちょうどこの洞穴の前で切れていたし、山小屋まで戻るには小1時間ほどはかかるので、ここで休まないことにはどうしようもなかったのだから。そうして、わたしは遅い食事を取り、少し眠ることにした。
ほどなくして目を覚ますと、既に辺りは夜だった。幸い洞穴の近くには森林がないために空の様子が見えた。星が出ていることにわたしは安心して、辺りを眺めてみた。するとおかしいことに気が付いた。
まだ明るかった時には洞穴の数はそう多くはなかったはずなのだが、今は洞穴の数が増えているようだった。しかし、わたしはまだ明るいときには洞穴があることに気付かなかっただけなのかもしれないと思い、さきほど休んでいた洞穴に戻ろうとしたときだった。
どこからとなく臭いがした−−森林の方からか?違う、森林の方からは風は吹いていない。それよりも、この臭いは何の臭いなのだ。獣の臭いでもない、草木の臭いでもない。いや、そもそもこの世にあるどんなひどい物でも、ここまで嫌な臭いを持っているとは思えない。そして、その臭いは川が流れ出ている洞穴から染み出してきているようだった。
その臭いがなんだかねばつくような感覚に襲われて、わたしは洞穴から遠ざかろうとした。そのとき、洞穴が動き出した。いや、正確には、斜面が動き、洞穴の形が少しずつ変わっていった。そして斜面から新たに洞穴が開き、別のところの洞穴のいくつかが姿を消した。では、さっき洞穴の数が違っていたのは気のせいではなかったのか。では、ここは何なのだ。
そう思ったとき、わたしはある視線を感じた。その視線は、いくつかの洞穴の向こうからわたしを強烈に見つめているような気がした。そして視線はわたしに洞穴の中へ入れ、と命令しているようだった。わたしは視線に逆らいがたく、ふらふらと洞穴の入り口まで連れ出されていった。そのときにわたしはある物を見た。そのときの恐怖がわたしを救ってくれた−−幸いなことに、そこから先の記憶はわたしにはない。ただ言えるのは、一目散に駆け出して、もと来た道を辿り、そのまま逃げてこれたことを今でも幸運に思っていることだけだ。
そして逃げ出している最中に、この場所からいくらか離れたところに村を見つけて、そこに駆け込み、覚えているだけのことを話した。村人たちもあの場所についてよからぬ噂を知っていたので、早急に手を打つこととなり、その翌日には村人たちの手でこの山小屋が建てられることになった。
本当ならばもう思い出したくもないが、警告のためにもあのときに見た物のことを書こう。
あの洞穴の中には目があった。身もよだつような触手が壁の一面に生えていた。その床には数々の骨が落ちていた。そうして、その壁には大きな傷−−明らかに岩の壁ではなく、巨大な生き物の皮膚のような表面に、大きな傷がぱっくりと口を開いていた。そして、そこからは赤い水が流れ出していた−−あの川の水−−真っ赤な川の水だ。
ここまで書けばもうおわかりだろう。
この山小屋が道を絶つように、道の真ん中に建てられているのは何故なのか。
森林の中に動物の姿がまったく見られないのは何故なのか。
太古にのみ存在するはずの樹木があったのは何故なのか。
あの森は、あの斜面は、そして川の流れているのは−−1つの……巨大な……古代の……
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