ダンセイニ作品での荒俣訳について

 ダンセイニの翻訳の、荒俣訳とその他の方々の訳の比較。
 最初に書いておくと、荒俣宏による訳と紹介がなければ今ほどダンセイニ紹介がされてなかっただろうと思うのも事実だし、個人的にも荒俣訳は好みの物が多いです。
 ですが、荒俣訳に含まれる問題がいくつかある為に、単純には鵜呑みに出来ない事や、研究や評価用(要するに「マジメな内容の文章」)としての底本に使いにくいというのも事実なのですが、この部分がちょっと誤解されやすいので一度まとめておこうと思った次第。
 なおここで取り上げるのは特に気になる部分を中心にしているだけであって、ここにある物で全部ではないので念の為。
 なおこの記事では人物名詞などは河出文庫版を基準としています。また敬称略です。

「ペガーナの神々」
底本
荒俣訳:「ペガーナの神々」早川文庫FT(1979)
安野訳:「時と神々の物語」河出文庫(2005)
原文:The Gods of Pegana(1905)

・最初の霧
荒俣訳(P.12)
 まだこの世がはじまらない前の、ふかいふかい霧のなかで

安野訳(P.14)
 〈始まり〉よりも前の霧のなかで

原文
In the mists before the Beginning,...

解説:
 翻訳に関して、昔から議論の種になりがちなのが「原文にない言葉を追加してよいのか」という問題で、これは荒俣氏に限った事ではありません。
 言葉を補った方が日本語として意味がわかりやすい文になる場合があるのも事実だし、昔はそういう文章が評価されてた部分もあるのは否定出来ない。
 ただし基本的には「そのままでも意味がちゃんと通る物はそのまま訳した方がよい」という考えが今では大半のように思う。
 この文章の場合は、確かに荒俣訳の方が雰囲気は出ているのだが、考えてみると霧は深い霧だけでなく浅い霧(薄い霧)もあるのだし、何よりダンセイニ本人は単純に「mists」としか書いてないので単純に「霧」と思う方が無難だろう。その霧の濃さを決めるのは読者であって、訳者が決めていい訳ではない。
 参考までに、アルク提供の「英辞郎 on the WEB」では「1.霧{きり}、かすみ、もや◆視界が2km未満の地面の雲(cloud)がもや(mist)であり、さらに1km未満の濃い雲を霧(fog)と呼ぶ。」とある。「ジニアース英和辞典」では「hazeより濃く、fogより薄い」。リーダーズ英和辞典では「薄霧」「fogより薄い」とある。
 余談ながら、WWW上で公開されている英文テキストでは、この章がPrefaceとされている物が大半だが、実はダンセイニの原文では無題の章である。
 本来のPrefaceはThere be islands in the Central Sea,(荒俣訳:〈なかの海〉というところに/安野訳:島々が浮かぶは〈真中の海〉)の部分に付けられている。これは、WWW上で公開されてるテキストの多くではThere〜の文章自体が削られている為だと思われる(他にも文字の大小の変更あり。これは気にしないのも手だが、英文では「斜体」「太字」「大小」に意味を込めてる物も少なくないので、安易に無視出来ないのも事実)。
 リン・カーター及びS.T.ヨシの編集した本に収録されてる物はダンセイニの原文に沿ったものなので、ちゃんとした原文を読みたいならそちらを読んだ方が良い。

・マーナ=ユード=スーシャーイは……
荒俣訳(P.47)
 (略)それについては、マアナ=ユウド=スウシャイをのぞいてだれも知らない。そしてマアナは、人間のことばをけっして語らない。

安野訳(P.42)
 (略)知る者はない。それを知るのはマーナ=ユード=スーシャーイ、もの云われぬ神のみである。
#実際には「もの云われぬ神」に傍点が振ってある

原文
... none knoweth saving only MANA-YOOD-SUSHAI, who hath not spoken.

解説:
 これは微妙だし、重箱の隅だとも思うが一応。
 マーナは何の言葉を話すのか自体は原文にはない。他の章では神々に向かって言葉を発する場面があるので念の為。ただこの事から考えると「けっして」はちょっと大げさになってしまうと思う。

・文体
荒俣訳(P.20)
 人間は大空を仰ぎ見るときに、自分以外にも尋(と)めゆく者があり、自分とおなじようにむなしい探索をつづけている者がある、ということを知る。

安野訳(P.20)
 人よ、汝は帚星を見るたびに、希い求めても決して真実にたどりつけぬものが汝のほかにもあると知れ。

原文
Man, when thou seest the comet, know that another seeketh besides thee nor ever findeth out.

荒俣訳(P.21)
 人は、北にむかって〈とどまりの星〉を見あげるとき、マアナ=ユウド=スウシャイと同じように安らぎにひたっている者がいることを知り、世界のどこかが睡(まどろ)んでいることを知る。

安野訳(P.20)
 人よ、汝は北に〈不動(うごかず)の星〉を見るたびに、マーナ=ユード=スーシャーイのごとく睡りにつくものがあると知れ。数多ある世界のなかに睡りにつくところがあると知れ。

原文
Man, when thou seest the Star of the Abiding to the North, know that one resteth as doth MANA-YOOD-SUSHAI, and know that somewhere among the Worlds is rest.

解説:
 いずれも俣訳では客観的な記述のように読めるが、安野訳では目上から語りかけているように読める。
 これは原文を読むとthou(二人称で、youに相当)が使われているので、「人よ、お前/君/汝(なれ)〜」という文章なのを理解するとわかりやすいと思う。(というか荒俣訳だとこれが抜けてる……)
 また後者はWorldsと複数形になっているのが、荒俣訳では見逃されている。

・大いなる者は?
荒俣訳(P.63)
 あるいはまた、彗星がかれの探索をやめ、もはや世界のはざまをめぐることもせずにじっと立ちつくし、まるで探索を終(お)えて休息につく者のように動かなくなるそのとき、ついに〈終末(おわり)〉はめぐり来て、マアナ=ユウド=スウシャイよりももっと前に睡みに沈んでいた〈より大いなる者〉が、その睡みから立ちあがるだろう。

安野訳(P.56)
 また、帚星が希い求めるのをやめて歩みを止め、もはや数多ある世界のあいだを歴回(へめぐ)ることもなくなり、探索を終えて休息する者のようにその場に留まるとき、遙かな昔に眠りについた〈いと大いなるもの〉、マーナ=ユード=スーシャーイさえもが、睡りから覚めて立ち上がられるであろう。なぜなら、それこそが〈終わり〉だからである。

原文:
Or when the comet ceaseth from his seeking and stands still, not any longer moving among the Worlds but tarrying as one who rests after the end of search, then shall arise from resting, because it is THE END, the Greater One, who rested of old time, even MANA-YOOD-SUSHAI.

解説:
 こうして見るとわかると思うけど、「the Greater One」の解釈が違っています。これはevenの解釈の問題だと思うのですが……つまり荒俣訳では「〜よりも○○である」の意味だと解釈しているようです。ちなみにeven自体は、この文の場合は「〜でさえも」「〜ですらも」。つまり原文を順番に読むと「睡りから覚めて立ち上がられる、すなわちそれが〈終わり〉、いと大いなるもの、遠い昔に睡りについたもの、マーナ=ユード=スーシャーイでさえもが」となります。つまり最後の3つはつながっているのです(荒俣訳だと先述の「〜よりも○○である」に引きずられたのか、これを分けてしまってるので変な事になってしまっています)。
 そもそも荒俣訳だと、「運命と偶然」以外にもマーナよりも偉大なものが存在し、マーナよりも前に睡っている事になってしまうのですが。(ちゃんと読んでいるならおわかりと思うが、「ペガーナの神々」はそもそもマーナが神々を創るのに飽きて眠りにつき、目覚めるまでの物語なのでこれはおかしいのです)
 蛇足ですが、evenの「〜でさえも」「〜ですらも」の用法は、「バブルクンドの崩壊」にも「予ですらも、予ですらも」(荒俣訳では「余ですらも」)として登場しています。こちらは原文は"Even I too, even I too."です。

・どちらを指してる?
荒俣訳(P.88)
 こうしてひとかたまりの骨となりはてながら、ユン=イラーラは、いまだに、かれが建立した塔の土台にうずくまる。そしていつまでも、風が吹きすさぶのにあわせて金切り声をたててムングに慈悲を乞うのだが、ムングは本当にいるのだろうか。

安野訳(P.76)
 いまだユーン=イラーラであることをやめられぬ骨の山は、かつて己の建てた塔の崩れた礎のあたりに横たわり、風が吹くたび甲高い声を上げてはムングの慈悲を請い求めている。もっとも、ムングが慈悲をお持ちかどうかはわからぬが――。

原文
Still from a heap of bones that are Yun-Ilara still, lying about the ruined base of the tower that once he builded, goes up a shrill voice with the wind crying out for the mercy of Mung, if any such there be.

解説:
 これは文末のif any such there be.が「ムング(Mung)」と「ムングの慈悲(the mercy of Mung)」のどちらについて述べた物か、という問題。
 これは原文を直訳した場合、「(略)ムングの慈悲を求めているのだが、それはあるのだろうか」「(略)ムングの慈悲を求めている、それがあればの話だが」という文章になるので、やはり「ムング」そのものではなく「ムングの慈悲」を指しているのが正解だと思う。

・インバウンの運命は?
荒俣訳(P.114)
 すると王がこたえた。「そうかもしれぬ、しかしなんじとていつかは必ず死を迎えるのだ。なるほど、余もやがては死ぬるだろう。しかしその日がやって来るまでは、臣民のいのちは余の手のなかにある」
 こうして衛士が予言者を送りかえした。
 そんなことがあってから、アラデックでは、王に死のことをけっして語らぬ予言者がたくさん生まれるようになった。

安野訳(P.101)
 王は応じた。「そうかもしれぬ。もっとも、そちがこれから死ぬのは間違いないぞ。なるほど、いつの日かおそらく予も死ぬのであろう。だが、その日まで民の命は予の手のなかにあるのだからな」
 それを合図に近衛は預言者を連れ去った。
 その後アラデックに立つ預言者は王には決して死のことを語らない。

原文
And the King answered: "This may be so, but certainly thou shalt die. It may be that one day I shall die, but till then the lives of the people are in my hands."
Then guards led the prophet away.
And there arose prophets in Aradec who spake not of death to Kings.

解説:
 これは若干わかりにくいかもしれない。荒俣訳ではこの事があった後もインバウンは生きているようにも読めるのだが、安野訳を読むとインバウンの運命は……
 この違いが出るのは王の言葉と、その後の近衛の「送りかえした」「連れ去った」の部分だろう。「(お前も)いつかは死ぬ」と「送りかえした」のセットだと「城から連れ出した(そして元の場所へ送り返した)」とも読める訳だ。
 これも王が(民の)生殺与奪の権利を握っている事を明言している部分がある事から考えると安野訳の方が適切だと思われる。
 (余談ながら、let away、というのは「連行する」なので、この事からも「処刑の為に連れて行く」という解釈の方が適切だと思う)

「時と神々」
底本
荒俣訳:「ペガーナの神々」早川文庫FT(1979)
安野訳:「時と神々の物語」河出文庫(2005)
原文:Time and the Gods(1906)

「暁の伝説」より
・意味が……?
荒俣訳(P.127)
 世界創造の前にあり、あるいはその後に生じた律のことごとくが神々に仕える一方で、そこここに住まう神々は、かしずかれることを歓びとする黎明王女に忠節を捧げるため、三々五々王女の許へ集うことを習いにした。

中野訳(P.130)
 〈始まり〉の前もその後も変わらぬ掟が万物は神々に従うべしと定めていたが、ペガーナの神々はどこへでも赴き〈暁の子〉のいうことに従った。彼女が傅かれることを喜びとしていたからである。

原文
And the law before the Beginning and thereafter was that all should obey the gods, yet hither and thither went all Pegana's gods to obey the Dawnchild because she loved to be obeyed.

解説:
 「裁判官の書斎」(倉田卓次・著)でも指摘されている誤訳。
 具体的には荒俣訳では始めの方を「あるいはその後に生じた律のことごとくが」としてしまっている為、後の文章が無理矢理になってしまっている(その為に原文にない言葉を追加してしまったりもしている)。

・単純な読み間違いで大違い
「南風」より
 荒俣訳(「ペガーナの神々」ハヤカワ文庫FT、P.195)
 〈宿命〉と〈偶然〉が行なう勝負はふいに終わり、敗北を喫した方が過去から未来にわたって存在することをやめ、こうして〈宿世〉と〈偶然〉という二人の競技者(勝ったのがどちらであるか、いったい誰に分かろう?)は、神々という神々を盤上からことごとく払いのけるだという。

 中野訳(P.217)
 〈運命〉と〈偶然〉の〈ゲーム〉は不意に終わり、敗者が過去に遡って存在するのをやめたとき、〈運命〉か〈偶然〉のどちらかが(どちらが勝つか誰に判ろうか)神々を盤面からことごとく払いのけるだろう。

原文
And the Game of Fate and Chance shall suddenly cease and He that loses shall cease to be or ever to have been, and from the board of playing Fate or Chance (who knoweth which shall win?) shall sweep the gods away.

 この問題は意外と根が深い物だったりする。
 まず、荒俣訳を注意深く読むと〈宿命〉が一度消えて今度は〈宿世〉が出てくる事になっている事がわかりますが、ハヤカワ文庫FT版では〈宿世〉が出てくるのがここだけなので、てっきり単なる誤字だと思ってしまうかもしれない。これについては後で述べる事にもつながるのだが……
 ここで一度、原文を参照、特にFateとChanceの間に注目するとわかりやすいだろう。そう、先頭ではandだが、後半ではorになっている……これで察しがつくと思うが、要するに荒俣訳では後半をandと思い込んだまま訳してしまっているのです。確かにFateとChanceのセットは他で出てくる場合は大抵andなので無理も無いとは思いますが。
 そして、一度訳して、「先の方で片方は存在する事をやめると書いてあるのに、その後もまだ両方ともそのままなのはおかしいな、じゃあ宿命を宿世にして、よし……と」という感じで後半のFateを宿世にしたのだと思われます。
 しかし、他の部分を読んでいくと、荒俣訳ではこの「宿世」への変更が他にもいくらか影響を与えてしまっている事がわかるのです。
 まず、『ダンセイニ幻想小説集』では、この「南風」の次に載っているのが「予言者の夢」で、これももちろんFateとChanceが出ているが、ここではFateが宿世になっている。つまり前の話の「南風」で宿世に変わったのだからそれに習っている訳です。ところがこの「予言者の夢」はハヤカワ文庫FT版には収録されていないので、結果として「南風」での宿世は宿命の誤字だと思ってしまう可能性もある訳です。
 そしてもう1つの影響は、ハヤカワ文庫FT版『ペガーナの神々』に収録されているドロザンドの部分です。ここではドロザンドを「宿世の神こそドロザンドである」(P.61)としています。これは原文ではDestinyで、だからこそ荒俣訳でもFateと区別して宿世としているのです。ところが、前述のように「時と神々」の方でFateを途中から宿世にしてしまった為に、「ペガーナの神々」と「時と神々」を荒俣訳で通して読もうとすると、ここがおかしな事になってしまうのです。つまり原文ではドロザンドはFateとChanceどちらにも直接の関係はないのですが、荒俣訳だと少なくともFateに関係がありそうだと読めてしまうのです。
 もちろん、実際には原文を見ればわかるようにor、つまり「FateとChanceのどちらかが」なのだから、FateもChanceも変わっていないのです。中野訳ではちゃんとorと読んでいるので正しい内容になっていますね。
 またこの事とは別に、この訳文で「宿世」を使う事には別の問題があります。そもそもこれは仏教用語、つまり仏教での概念なので、字面が似てるからといってそのまま「宿命」の代わりとして使うのはあまり適切ではありません。
 第一、意味もまるで違う物で、「宿世」は「前世からの因縁」を意味する言葉であり、つまり「現在の状況」についての言葉ですので、そのまま「宿命」の代わりになる言葉ではありません。
 恐らくは「宿世は前世からの因縁を意味する言葉なのだし、作中で宿命の次に出てくる物としてもぴったりだしこれを使おう」と思ったのでしょうが……。この事はドロザンドの部分にも言えます。そもそもドロザンドは「(現在から)未来の終末まで」を見つめる神なので、宿世を当てはめるのは適切ではないと思うのですが。

・誤訳
 「預言者の夢」より
荒俣訳(「ダンセイニ幻想小説集」創土社、P.78)
 「神々、遠きもの(リモース)を創りき。小雨そぼ降る秋の宵に似せたる灰色の毛、無惨にも肉を引き裂く鉤爪をいくた持てる、遠きものをば。(後略)」

中野訳(P.241)
 「神々は、秋の雨の夕のような灰色の毛皮といくつにも割れた鉤爪を持つ〈後悔〉と、(後略)」

原文
They made Remorse with his fur grey like a rainy evening in the autumn, with many rending claws,...

解説:
 これも「裁判官の書斎」にて指摘されていたもの。
 読めばわかるがRemorse(後悔、悔恨、自責の念)をRemoteか何かと勘違いしたのか、「遠きもの」と訳してしまっている。このセリフの中では、他にPain(苦痛)、Fear(恐怖)、Anger(怒り)、つまり感情を意味する言葉が並べられているのでこれだけが「遠きもの」になるのは不自然(荒俣訳でも他のは全部感情になっている)。
 また、原文ではこの台詞の中でこの単語は1回しか出てこないのだが、荒俣訳では文を分けた為に、付け足す事になり2回登場してしまっている。
 このように荒俣訳では1つの文章(セリフ)を複数に分けてしまっている為にこういう無理が出ている文章がいくつかあります。
 これは原文(ここでは略しているが)を読むとわかるように「〜と、〜と〜と〜とを創った」という文章なので、無理に「〜を創った。〜を。またさらには〜をも、さらには〜をも創った」などとする必要はあまりない。実際、中野訳では原文同様の形になっている。

「サクノスを除いては破るあたわざる堅砦」
底本
荒俣訳:「妖精族のむすめ」ちくま文庫
中野訳:「夢見る人の物語」河出文庫
原文:The Sword of Welleran and Other Stories(1908)
 この作品に限った話じゃないけど、荒俣訳で問題になる部分を出すと数が多すぎるので、わかりやすい物をいくつかだけ。

・杖(棒)の材料
荒俣訳
 ハリモミの樹

中村訳(P.126)
 榛(はしばみ)の木

原文
hazel tree

解説:
 hazelは「ハシバミ」。
 細かい違いだと言われそうだが、それ以前の問題としてハリモミは「日本の固有種」です。ハシバミは日本にもあるが、主に海外では古くから存在し、宗教的な意味など様々に使われています。また大きさも全然違います(ハリモミはかなり大きくなるのに対し、ハシバミはそんなに大きくならない)。
 これについては同人誌「PEGANA LOST Vol.10」にて小野塚力によるサクノス論に詳しく書かれているので、興味がある方はそちらを参照してみる事をお奨めします。(追記:忘れていましたが、この記事は小野塚さん本人がWebサイト上に上げていました。「りき's ホームページ」の中の論文コーナーにある、『ダンセイニ「サクノスを除いては破るあたはぬ堅砦」論』がそれになります。)
 一応……擁護する点があるとすれば、昔はこのように日本では馴染みが薄かったりする名称や語句などは、日本にある物(馴染みのある物)に置き換えるという訳し方をする人も珍しくはなかったので、これもそういう典型の可能性が高いと思う。
 例えば平井呈一の訳などは、日本語として綺麗な文ではあるけど、実は結構「置き換え」も少なくないのですよね。また別の作家では、かなり乱暴なやり方で「樹の名前は全部同じ物に訳してしまう」などという方もいました。
 ただし、これはあくまで「そういう歴史的経緯がある事も考慮した方がいい」という意味であって、善し悪しとはまた別の話なので念の為。もちろん今では情報もいろいろ探しやすくなったりしているのだし、なるだけちゃんと正しく訳した方がいいのは間違いないでしょう。

・えーと、誰ですか?
荒俣訳(P.41)
 疲れは極みに達し、睡魔のいざないも烈しかったけれど、この竜鰐にとって最も大きな歓びは、いま物を喰らうことだった。

中村訳(P.129)
 疲れきり、睡魔に襲われてはいたが、いまでは糧食を頬張る余裕があった。

原文
He was very tired and sleepless, but had more leisure now for eating his provisions.

解説:
 「He」が誰かを間違えている単純な間違い。ちなみにこの直前は「レオスリックは棒に寄りかかった」と「レオスリックの動作」を書いているので、「この竜鰐」でないのは明らかなのだが。

・抜けてます
荒俣訳(P.45)
 また、どんな石よりも美しかった。

中村訳(P.132)
 来る日も来る日も彼らは丘の肋骨そのものを抜き取り、やがて僧院が建った。それは石造りのなによりも美しかった。

原文
Day after day they wrenched out the very ribs of the hill until the Abbey was builded, and it was more beautiful than anything in stone.

解説:
 荒俣訳では文章の前半がごっそり抜け落ちてます。ちなみにこういう文章の「抜け」(訳し忘れ)は他の作品でもいくつかあります。

・歴史家たちのいる理由
荒俣訳(P.49)
 その宝石はどれも、日がな一日その貴玉にだけかかずらう史家どもをひとりずつ占有する。
中村訳(P.136)
 ちなみに、それぞれの宝石には、死ぬまでその由来を書きつづる歴史家がひとりずつそなわっている。

原文
...each jewel having a historian all to itself, who wrote no other chronicles all day.

解説:
 比較してみると、荒俣訳ではそれぞれの宝石に史家が一人ずつついているのはわかりますが、何の為についているのかが書かれていないのでその部分がわかりにくいのです。原文を参照すると「一日中記録(由来)を書いている」という説明がちゃんとあるので、翻訳する場合はこの部分も反映させないと意味がわかりにくくなってしまいます。

・良く言えば「意訳」、悪く言えば「創作」さてどっち?
荒俣訳(P.62)
 いずれ諸説を競わせる必要はない。庭師たちはこの秋の木の葉をすでに集めつくした。その古事を、だれがふたたび目のあたりにし、だれがふたたび脳裏に焼き付け得ようか?そして、あの遠い古えの日にもち上がったできごとを、いったいだれが真実と証言できようか。

中村訳(P.147)
 願わくは、かく申す者たちに平和を。庭師はこの秋の落ち葉を集めてしまった。その落ち葉をふたたび眼にする者はあるまい、あるいはその落ち葉について知る者もあるまい。ならば、遠いむかしにありしことを知り得る者がいるであろうか?

原文
Peace to them. The gardener hath gathered up this autumn's leaves. Who shall see them again, or who wot of them? And who shall say what hath befallen in the days of long ago?

解説:
 最初の文は、原文を見れば一発で完全に違う内容だとわかるはず。
 あとはまあ……wot(知る)が何故「(見て)脳裏に焼き付ける」になるんだとか、庭師は複数形じゃないのに複数と訳するなとか……荒俣訳で多いのがこういう問題。

「三人の文士に降りかかった有り得べき冒険」
底本
荒俣訳:「妖精族のむすめ」
中村訳:「世界の涯の物語」河出文庫(2004)
原文:The Book of Wonder:A Chronicle of Little Adventures at the Edge of the World(1912)

・単純に考えると……
荒俣訳(P.104)
 遊牧民

中村訳(P.41)
 流浪の民、漂泊の民

原文
nomads

解説:
 確かにnomadsは単純に辞書を引くだけだと(砂漠の)遊牧民、なんだけど、作中を読むとわかるが基本的には盗賊の物語ですね。
 これは元々ヨーロッパを中心に「ジプシー=盗賊」という偏見があるのだそうで(実際、昔は物盗りなどが起きるとジプシーが疑われていたそうです)、それを考えると、この作品で使われているnomadsは「ジプシー」の者、つまり流浪の民が当てはめられていると考えるのが妥当だという話。
 遊牧民も移動しながら生活するにはするけど、こっちは割と固定してるし、行動するルートとかも結構決まっているんですね。その為結構イメージが違います。

「老門番の話」
底本
荒俣訳:「妖精族のむすめ」
吉村訳:「世界の涯の物語」
原文:Tales of Wonder(1916)
 厳密には誤訳ではないのですが、「ゲンコツ」について2chのダンセイニスレで質問とそれに対する答えが出ていたので、それをまとめておきました。この情報がないと結構わかりにくい話なので。

−−−ここから引用−−−
『老門番の話』に出てくる「ごちそう」って原書ではどんな単語ですか?
荒俣訳では「ゲンコツ」になってますが、もしかして
「feast」を「fist」と勘違いしたなんてオチ?

bash
『ゲンコツ』自体は誤訳ではない。薬の名前として使っているらしいから。
ただ荒俣訳の場合、唐突すぎて薬だとわかりにくい。
なぜなら、説明のある段落(吉村訳で第3段落に当たる部分)がごそっと抜けているから。

His favourite story if you offer him bash - the drug of which he is fondest

bash が drug と同格。「強烈な薬」くらいの意味で使っていることがわかる。
−−−引用ここまで−−−

 補足すると、吉村訳ではこのように訳されています。

吉村訳(P.209)
 もし老門番にごちそうを振る舞うとしたら――彼の一番のごちそうである秘薬を。

 ここで使われている「bash」はこういう事情がある為、荒俣訳だけでも吉村訳だけでもわかりにくいのが困りもの。

「海を臨むポルターニーズ」
底本
荒俣訳:「妖精族のむすめ」
安野訳:夢見る人の物語」

・「道」か「歩き方」か
荒俣訳(P.141)
 草を荒らす道も、また荒らさない道もある。
安野訳(P.180)
 草を傷める歩き方と傷めない歩き方があって、

原文
...for there is a tread that troubleth the grass and a tread that troubleth it not,...

解説:
 treadは「踏む、踏みつぶす」「足取り」です。その後に「草を荒らす・荒らさない」がありますので、つなげていくと「草を荒らす・荒らさない歩き方」という事になります。
 荒俣訳でも流石にこのままでは不味いと思ったのか、続けて「(略)どの道をたどるべきかちゃんと心得ている」としていますが、それでも少々無理矢理な感は拭えません。そもそもこの内容にした場合、草を荒らしていい道と荒らしてはいけない道の両方が絡んだ糸のようになっていてそれぞれが街まで続いていないといけない訳ですが、それはどう考えても変な事になってしまいます。
 つまり自然なのは「道の途中には草を踏み荒らしてはいけない所もあるけど、そこを通る人たちは皆草を踏み荒らさない歩き方を心得ているので問題にはならないのだ」という解釈なのです。

「女王の涙をもとめて」
底本
荒俣訳:「妖精族のむすめ」
安野訳:「世界の涯の物語」

・単純な「訳抜け」
荒俣訳(P.88)
 (訳出なし)
 かれは、アファルマ、〜
安野訳(P.77)
 けれどもアクロニオンだけは、帰る道みち考えをめぐらせた。
 彼こそはアファルマー、〜

原文
Yet Ackronnion pondered as he went away.
King was he of Afarmah,...

解説:
 荒俣訳の方では「誰」なのかが抜けてしまったために、続いている文章が誰の事なのかが若干わかりにくくなっているのです。確かに少し前の部分で名前は出ているのですが、その部分と引用した文章との間に書かれている出来事とこの文章はそのままつながる物ではないので、この文章がなくても問題ないとは言えません。

「五十一話集」Fifty-One Tales(1915)
底本
荒俣訳:「妖精族のむすめ」ちくま文庫(ただし確認は「ペガーナの神々」創土社でも行っている)
安野訳:「最後の夢の物語」河出文庫

「風と霧」
荒俣訳(P.275)
 大商船が一せき。八せきの漁船に九十の定期船
安野訳(P.20)
 大商船団を一つ、漁船団を八つに戦列艦を九十

原文
..., a certain argosy that went from Tyre, eight fisher-fleets and ninety ship of the line,...

 まず、a certain argosyをどう訳するかが問題になります。argosyを辞書で調べてみると「大型商船」「商船団」の意味である事がわかりますが、このどちらなのかは文脈で判断する事になります。
 荒俣訳では大商船が一隻となっていますが、よく考えるとここは霧が「俺だってこんなに沈めてやったんだぞ」と愚痴って(つぶやいて)いる場面なので、いくら大きいとはいえ商船を一隻沈めた事が自慢のうちになるとは考えにくいのではないか、と気付かないとわかりにくいかもしれません。それに、単に一隻だけだったならばan argosyとだけ書くだろう、という事はわざわざa certain argosyという形になっている事に気付かないといけないのです。
 つまりこれは「とある一つの商船団(をまとめて沈めてやった)」とするのが適切という事になります。ただし擁護すると、この文章は辞書でもかなり調べにくいのです。特に真ん中のcertainを辞書で引いてみるとわかると思いますが、ここでは「とある」(特に「どれ」とは断定しない(特定しない)言い方)としての用法、もしくは「ある程度の」(数・量や規模を示す)としての用法が当てはまると思われます。後者の用法の場合、原文でのこの箇所は「ある程度の規模の船団」という事になります。いずれにせよ、argosyは少なくとも単体の船ではないようだという事になりますね。
 次に、fisher-fleetsが問題になります。ここではfleet(s)が付いている、つまりfisher(ここでは古語での漁船なので注意)の集団(fleet)なので、「漁船団」が当てはまる訳です。
 最後はship of the lineですが、これは「そのままの形」で戦列艦の意味だと辞書に載っているものです。ただし一般的な辞書(主に学習用辞書の類)には載っていない事もあるので、いわゆる「中辞典」以上の物でないと探しにくい事もある語句なのです。これは英英辞書(英語辞書)でも同様で、OALDなどの学習用には載っていませんし、英語辞書でも辞書によって載ってたり載ってなかったりします。これ自体が古語かつ軍事用語に近いものですし、仕方がないと言えば仕方ないのですが。
 ただ、それにしては「定期船」の訳はちょっとあんまりだと思いますが……lineから「航路」だと解釈したのでしょうが、一般的に定期船はlinerです。(蛇足ながら、この少し後に収録されている「金の耳飾りの男」にはlinerが出てきており、こちらは荒俣訳で「ライナー」となっています。)
 少し補足しますと、この部分はまず直訳しようとすると「線の船」になるのですが、ここで勘のいい人は「線、つまり列になるのではないか?」と発想して「もしかして特殊な船の呼称なのではないか?」と気付く、つまり慣用句みたいな用法を探す、という流れが必要になる訳です。この部分に気付かないと調べにくいのは確かです。(なおship of the lineは元々が「lineになる船」、つまり「列になって移動する船」が語源なのでこの形になっている訳です)
 いずれにせよ、この部分は結構訳しにくいのは事実で、実は安野訳ですと続く文章のうちのfour quinquiremes, ten triremes(荒俣訳では「五段櫂のガリー船〜三段櫂のガリー船が十せき」)が抜けています。原文を読んでいてもどこで区切るのかがわかりにくく頭痛がしそうな部分だったりしますし。これは原文が意図的に「そうしている」からなのです(日本語でも人に聞かせる事を意図していない愚痴やつぶやきは明瞭な日本語になっていない表現がありますが、そうしたものと同じ表現なのでわざと文章がいくらかわかりにくいようになっているのです)。

「〈時〉と職人」
荒俣訳(P.288)
 なぜなら、あまりにも長いこと野原を苦しめてきたとある大都市が、いま疲れきって病いにかかり、ことさらにかれの到来を待ちわびているからだった。

安野訳(P.32)
 ある大きな都が疲労と病におかされたあげく、ずいぶん長いあいだあちこちの野原を痛めつけているので、ぜひとも行かねばならなくなったのだ。

原文
...for a mighty city that was weary and sick and too long had troubled the fields was sore in need of him.

 訳文を比較してみますと、物事の順番が違う事がわかると思います。
 これは原文を素直に順番に読むと都市が「疲れと病」、そして「野原を痛めつけている」、最後に「彼(〈時〉)が必要」の順になっているので、訳する場合もそのまま訳した方がいいのです。
 そもそもここはthat以降のandが連続している部分を「連続した一つの流れの文」として読むのが正解なので、その順番をいじってしまうと、訳文だけ見れば一見正しい文章でも、原文とはまるで違う意味になってしまう事になります。

「薔薇」
 荒俣訳(P.299)
 なぜなら、わたしたちはこのあさぐろい古都を、もはやすこしも愛していないから。

 安野訳(P.43)
 人間はあの薄汚れた古い都のことを、少しは愛おしいと思っているのだから。

原文
...because we have loved a little that swart old city.

 訳文の違いは、littleの解釈の違いによるものです。
 原文ではa littleの形なので、「ちょっとした」「少しは」「いくらかは」「わずかには」の意味で使っています。つまり肯定的な意味での「少し」という内容になります。
 確かにlittleをほぼ完全な否定(日本語にした場合は「全然」「ちっとも」)の意味で使う用法もあるのですが、その場合は全然違う形(a littleではなくlittle単体で使うのが普通)での使い方になります(ただしあまり使われない用法ですし、普通は否定に使う場合でも「少ししかない」などやや軽い否定の形で使われますので、完全な否定でのlittleを考える必要はあまりありません)。
 蛇足ですが、稲垣足穂もこの部分を荒俣訳と同じように訳してしまっていたりします。

「敵がスルーンラーナを訪いし事の次第」
 荒俣訳(P.321)
 何者とも知れぬ魔道士が悪魔を呼ぶために唱える呪詛の声が

 安野訳(P.62)
 なにとも知れぬあやかしを呼び出す呪術師らのうめきが

原文
...the moan of the magicians invoking we know not Whom rose faintly...

 訳文を比較してみると、「何かはわからないもの」が術者と呼び出す物のどちらにかかってるかが違っていますね。
 これは原文を読むと、「呼びかける魔術師のうめき声」、その後に「我々の知らぬなにものか」と続くので、そのまま読めばいい事がわかります。

「ピカデリーを掘る」
 荒俣訳(P.325)
 〈ヨークからロンドンまで〉と読めるびっくりするような名札をつけた小さな革紐

 安野訳(P.65)
 「ヨーク・トゥー・ロンドン」という奇妙奇天烈な名称で通っているあの細い革バンド

原文
...little leather band below the knee that goes by the astonishing name of "York-to-London".

 そもそも足に巻くような細い革バンドにわざわざ名札が付いているとは考えにくいのですが……。革バンドに名称が彫り込まれてる、とかならわかりますが、それでもこの場面は現場を通りかかった語り手が少し離れた所から見た時の場面なので、かなり近づかないと読めないのでは?というように不自然です。
 これも原文を読むと「〜という驚くような名前で通っている」と書いている事がわかります。補足するとgo byには「(ある名称や呼称などについて)〜で知られている(通っている)」という用法もあります。

「哀しき神像」
 荒俣訳(P.329)
 歳月がつけた小さな瑕を身にもつ

 安野訳(P.70)
 長年のあいだに折れてしまったちっぽけな笞を手にしたまま

原文
...holding a little scourge that the years had broken...

 scourgeは辞書を引くとすぐにわかりますが、古語での「ムチ(鞭、笞)」です。

「畑づくり」
 荒俣訳(P.338)
 かれは心の中から〈時〉を掘り起こしたけれど

 安野訳(P.79)
 大昔からあいつは畑をつくって

原文
Time out of mind he has delved...

 これは慣用句みたいなもので、time out of mindと書いて「大昔」を意味するのです。(辞書を引く場合はtimeで引くと近くに載っているはずです)

「ロブスター・サラダ」
 荒俣訳(P.340)
 素足だったら仕事もいくらか楽だったろうに、あいにくわたしは、夜着といういでたちにもかかわらず、頑丈な革靴を履いていた。おかげで狭い割れ目から靴先が抜けなくなることがよくある。

 安野訳(P.81)
 素足だったらおしまいだったろうが、ナイトシャツという格好なのになぜか頑丈な革のブーツを履いており、その爪先がなんとか細い隙間をとらえてくれた。

原文
Had my feet been bare I was done, but though I was in my night-shirt I had on stout leather boots, and their edges somehow held in those narrow cracks.

 わかりやすい違いは、語り手の靴に対する見方の違いですね。荒俣訳だと靴のせいで難しい場面になっているのに対し、安野訳では靴のおかげでなんとかなっているように読めます。
 これは原文の後半を読むとわかりやすくなりますが、後半は直訳すると「なんとか細い隙間につかまっている」となります。つまり靴のおかげでなんとか隙間につかまる事が出来ている、と書いているのです。これがわかると前半の「I was done.」の意味も判明するのですが、逆に言うと先にここの意味を決めてからその続きを訳するとそれに引きずられてしまう事があるのです。(念の為書いておくけど、結構訳しにくい文章なので注意。無論間違いは問題だけど、そもそもI was done.自体が「結構訳しにくい」んですよね)

 ここまで見るとわかると思いますが、問題になるのは「原文にない言葉の追加」「誤訳」だけでなく「抜け(訳し忘れ)」などもいくつかある為、荒俣訳をそのまま鵜呑みには出来ないのです。いくつかの例でもわかるように、意味が違ってしまうものもありますし……
 一応書いておきますが、冒頭でも書いたようにここに挙げているのはわかりやすい物でかつ、「一部」(つまり実際にはもっとある……が、面倒だからパス)です。というか細かい物が結構多いんだもん。

 また荒俣氏がこれらの作品を翻訳していた頃の翻訳事情(当時は辞書も今ほど正確ではなかった、などの事情もある)も理由になるし、後は……これは荒俣氏が明言しているのですが、当時は「辞書を引かないで翻訳した」のでそのせいで間違えてる物も少なくないようです。
 これについて念の為書いておきますが、確かに「辞書を引かない」を公言する翻訳家もいます。ただし基本的には翻訳家も「辞書を引く」のが大半ですし、それが当たり前(例えばSF翻訳家である矢野徹は「辞書は必ず引け」と言っていた記憶があります)なのです。ちなみに、荒俣氏が今は翻訳するのに辞書を引くのかどうかは知りませんのでこれも念の為。
 (余談。ちなみに翻訳家の書いた本で結構あるのが、「辞書を引かないで翻訳すると言っている翻訳家は信用しない」という話だったりする。そのぐらい辞書を引くという行為は大切。)

 また当時の荒俣氏は大学〜社会人としての二足の草鞋(会社員と翻訳)の頃の物が大半なので、どうしてもチェックなどを完全にはしにくい、などの事情もあると思われます。(一応、このような場合は編集もチェックをするべきなのだが、当時はそういうのも難しい(というか「原稿を書く人の方が詳しい」という状況が大半だと思う、当時は)というのもあるのだと思う)

 最後に、文中でも書きましたが、いくつかの情報は2chのダンセイニスレで出て来た情報を元にしています。これらの情報を書き込んでくださった方々に感謝します。

メニューへ戻る


うしとら
usitoraあっとqj9.so-net.ne.jp
(05/21/2013 21:38)